OSHOについて

私達の大半は過去の記憶と未来への期待といった、時間の世界のなかで何生にも渡って生きてきています。現在という時間のない次元に触れることはめったにありません――思いがけず美しいものや危険に出会った瞬間、恋人との出会い、また予期せぬ出来事に出会った時の驚きの中に、それを垣間見るぐらいでしょう。

そんな中でOSHOは、現在という時間のない次元のなかに、生を生きていくための扉を発見した人で――彼は自らを「真の実存主義者」と呼んでいます。
彼は他の人々もまたこの同じ扉を探し求め、過去や未来の世界から踏み出し、そして永遠の世界を自分で発見していくよう、人々を触発することにその人生を捧げています。

和尚14歳
OSHOは、1931年12月11日インド、マディヤ・プラディッシュ州クチワダに生まれました。OSHOがまわりの世間のしきたりに従わないことは、幼少の頃からはっきりしていました。彼は人生の最初の7年間を母方の祖父母とともに過ごしていますが、祖父母はほとんどの子供が満喫することのない、自分自身であることの自由をOSHOに許しました。
彼が言っていることですが、母方の祖父の死は彼の内なる生に深い影響を与え、人生において死なきものを見出す決意を呼び起こさせたそうです。
その後、OSHOは両親とともに暮らし始めますが、学校に入学する頃迄には、彼の生を型にはめようとする大人達のあらゆる試みに挑んでいく勇気が持てるだけの明晰さと、自分なりの観念を確固として築いていきます。
彼は決して論争をさけない人でした。

彼にとって真理とは妥協できないものであり、もし妥協できるものであるなら、もはやそれは真理ではないからでした。また真理とは信じるものではなく、体験そのものだからです。彼は自分が語ったことを信じるのではなく、むしろ、それが真実かどうかを自ら実験し、その真否を見定めるようにと言っています。と同時に、彼は信仰というものが何であるかを――それは未知なるものに直面する不安を和らげようとするための単なる慰めであったり、神秘や知られざる真実に遭遇しないためのバリアであったりしますが――それを暴くための方法や道を見出すことにおいては容赦しませんでした。



21才で光明を得たのち、大学での学業を終え、ジャバルプールの大学で哲学を何年間か教えていますが、そのかたわら演説をしながらインド中を旅し、公開討論の場では伝統的な宗教指導者達に挑み、また各界の人々とも会見していきます。

1960年代の終わり頃には、彼独自の瞑想技法であるダイナミック瞑想法の開発に取りかかり始めます。現代人は、過去の黴のはえた因襲や、現代生活の不安という、たいへんな重荷を背負っているために、深い浄化の過程をくぐり抜けぬうちは、無心でくつろいだ瞑想状態を見出すことは難しいとOSHOは言っています。また、OSHOがインド各地で瞑想キャンプを始めたのもこの頃です。1970年代初期には、西洋人もOSHOに耳を傾けるようになり、それまではネオ・サニヤスとしてインド人がどんどんOSHOの弟子になっていましたが、その頃から西洋人の中にも弟子になる人が増え始めます。




1974年にはインドのプーナでOSHOを中心とするコミューンも完成し、滴ほどだった西洋からの訪問者は、またたくまに洪水のようになっていきます。1970年代の終わりにはプーナのコミューンは世界最大の治療と成長のためのセンターとなり、セラピー・グループや瞑想、OSHOの毎朝の講話や、夕べのダルシャンでOSHOと共に座るために、そしてコミューンでの生活に身を捧げるために、数千という人々が訪れ始めます。

1981年から1985年の間、コミューンの実験はアメリカ合衆国のオレゴン州の東部、高地にある126平方マイルの砂漠地域で展開していきます。初期のコミューン生活は「砂漠のオアシス」ラジニーシプーラム・シティーの建設が主となりました。ラジニーシ・プーラムでの瞑想・治療のプログラムは、ラジニーシ国際瞑想大学によって運営され、より長期のコースやトレーニングが開発され、より巾広い層の参加者を魅了しました。

 


1985年末、この実験はOSHOとコミューンに対する地域住民や政府の反対にあい、コミューンは解散しOSHOはワールド・ツアーへと旅立ちます。1986年半ばにOSHOはインドに帰国し、1987年1月までプーナに再び居を据え、1日2回の講話をしています。プーナのコミューンは2、3ヶ月のうちにその活動の全プログラムを再開し、それは以前を上まわる広範囲な広がりを見せていきます。東洋――特に日本からますます人々が訪れるようになり、彼らが加わったことで治癒および武道のプログラムはより一段と豊かさを増し、その多様性と拡がりは、あらゆるプログラムを包括する名称としてOSHOが選んだ「マルチバーシティ(多元大学)」という名に反映されています。また、瞑想の方にもよりいっそう重きがおかれるようになり――それはOSHOが講話の中で何度も何度も繰り返し言ってきたテーマですが――さらにOSHOは、ノー・マインド瞑想、ミスティック・ローズ瞑想そしてボーン・アゲインなどをはじめとするいくつかの新しい瞑想的な精神療法を開発し、紹介していきます。










1987年半ば頃からOSHOの健康はすぐれなくなり、しばしば講話ができなくなります。質問に答えて禅の経典について説いた、1989年4月の講話が最後となりました。それからの数ヶ月は彼の健康が許すかぎり、弟子達とともに座るために、OSHOは夕方の音楽と沈黙の瞑想に現われました。


OSHOは1990年1月19日に肉体を離れます。そのわずか数週間前、OSHOが去ったあと、彼のワークはどうなるのかという質問に対し、彼はこう答えています。

  存在に対する私の信頼は絶対的なものだ。
  もし私が語っていることに、何らかの真理があるのなら、
  それは生き残りつづけるだろう。
  その灯火は私のワークに興味を抱き続ける人々によって、
  ただ持ち運ばれていくことだろう。
  誰も他人に何も押しつけることなく。

  私は私の人々へのインスピレーションの源でありつづけるだろう。
  そしてそれは、大半のサニヤシンが感じることだろう。
  私は彼らに自分自身で成長してほしい――
  そのまわりに、どんな教会も作れないような愛の質を育み、
  誰の独占物にも決してならないような覚醒の質を育み、
  祝祭に、歓びにあふれる質を育て、
  そしていつも清らかで子供のような眼を持ち続けていってほしい。
  私はみんなが他の誰かに従うのではなく自分自身を知ってほしい。
  そしてその道は内側にある。





 肉体を離れる前、OSHOは彼のサマーディのための碑文を口述しており、彼の遺灰が納めてある大理石と鏡でできた部屋にはこう記されています。



OSHO
決して生まれることなく――決して死ぬこともなく
1931年12月11日から1990年1月19日まで
ただ、この惑星地球を訪れる



OSHOはまたそのワークの継続にあたり、どのようなワークの拡大を望んでいるかを語っています――今、自分はこの肉体を離れようとしているが、さらに多くの人々が訪れ、さらに多くの人々が興味を示し、そしてこのワークも、私たちの想像をはるかに超えて大きくなっていくだろう――と。そして、そのことは今、起こっています。


 

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